サボテン備忘録

面白かった映画の感想を書こうかな.

NetFlix: Black Mirror 2021/5/31

Black Mirror Season3, episode1 "ランク社会"

なかなか面白い'反実仮想'であった.
SNSで'いいね'を稼いで,得られた今の自分の'ランク'(線形代数とは関係ない)が生活のサービスの質と生の豊かさを決定する社会を描く.
いいねが欲しいから他人に愛想を振りまき,別れ際に笑顔で相手にハイスコアのいいねをあげる.そうすると相手は自分にハイスコアのいいねをくれる.
なんとも"きもい"社会と人付き合いである.時折不満が溜まって悪口を言ってしまうと,それを聞いた周囲がすぐさま低い評価をくれ,それゆえ自らのランクがどんどん下がる.そうすると主人公は焦りと不安でいいね稼ぎに脅迫される.実に愚か愚かしい.一つは,不安と焦りに脅迫された人間はかくもキモく成り下がるのかということ.
一つは,'いいね'上の付き合いの蔓延しきった社会はかくもキモく窮屈なこと.

本作品を見たあと思い出すのは,"リーガル・ハイ"である.リーガル・ハイのシーズン2の最後の最後に古美門が羽生を打ち負かした後に一言,「自分も醜い人間の一人であることを自覚しろ」といい,「醜さを愛せ」という.それが黛にも刺さる.ランク社会の住人にも妥当する.この映画を見ている人たちも,映画を見ている途中で「醜さを愛せない人間や社会はキモい」と気づく.

映画の最後で監獄に入れられた主人公は空気中の「ちりやほこり」にさえ感動し,自らの生き方と社会の在り方のキモさを込めて暴言を吐き続ける.誰しもが醜さを持っているという人間の実存の本源を究極的に隠すという行為の愚かさを投げかける.醜さを受け入れられない社会はキモい.いいね探しの人生や社会はキモい.他人から数値化された一次元的な評価軸で自らの価値を左右され一喜一憂することほどキモいものはない.それは学校教育での試験や内申点なども含まれるだろう.しょうもないランク社会は避けたい.肥大化した自意識を自分の中だけで処理することのできない幼稚な人間が日本にもいろんなところで見かけるような.

 

Season1 Episode2 "1500万メリット"

徹底的な管理社会.人々は毎日決まったリズムで同じ生活を送る.共産主義的なノスタルジーか,それとも奴隷社会の警鐘か.ヴァーチャルなお金を貯めるべく自転車の発電を行う.それが運動にもなるし,生活の電力をまかなう.あらゆる営みはヴァーチャルな情報としてしか消費されない.というより,あらゆる営みがコンテンツとしてしか現れない.なんら'リアル'なこと・ものはない.あるのは情報だけ.そこから抜け出す方法はただ1つ,オーディション番組に出てスターになること.主人公の男はある女性の美声に賭けて,唯一のリアルな体験="女性がスター歌手になること"を期待する.しかし女性は審査員たちに嵌められてポルノ女優になる道を選ばざるを得なくなる.自分の期待した夢すら再びコンテンツになってしまい情報として消費されるだけである.すると残る非情報的・非コンテンツ的な営みは,その審査員たちに一矢報いることだけ.自殺するふりをして注目をあび,審査員を罵倒する.その瞬間は主人公にとってvividでrealな体験であるだろうが,終わるや否や,審査員は彼のアクションをエンターテインメントとして吸収して彼をスターパフォーマーとして雇う.先の女性も主人公の彼も,毎日の自転車生活を捨て,'役者'になることを選んだ.リアリティを期待した結果,自分がコンテンツの消費者からコンテンツの配信者になっただけ.何も変わらず,'コンテンツの消費'という事態から何も進展しなかった.埋め込まれた文脈から少しも抜け出すことはできないのだろう.

コンテンツ消費の社会に何を期待すればいいのだろうか,あるいは情報的コンテンツ消費の社会を目指していいのだろうか,と問うているのだろうか.

しかしNetflixはそのような社会を支える媒体ではなかろうか.コロナ禍のstay homeでNetflixは躍進した.人は情報処理的コンテンツ消費を望んだのだろう.オンライン飲み会もしかり.たまに感染症に注意しながらBBQにふける.ではオフラインの飲み会ならリアルなのか.情報処理ではないのか.所詮一過的な"オーディション番組"に過ぎないのではないか.

 

Season1 Episode3 "人生の軌跡のすべて"

頭に埋め込まれたチップが個人の記憶のすべてを記録している社会.各人はいつでもどこでも好きな時刻の記憶を再生することができる.ここでもまた情報処理的コンテンツ消費だ.記憶が情報として処理されるコンテンツになった社会だ.そこには記憶と記録の違いがなくなった.よって記憶は体験とリンクしない.その時の体験を思い出しながら感傷に浸るのではない.端的に言えばAVやハメ撮りを見るのと相似だ.あるのは記録だけ.映画のように非日常を与えるのでもなく,テレビのように娯楽や家族との時間を得るのでもない.単にオカズとして消費されるのみ.便利になったり楽しくなったりするわけではなく,もはや'証拠'として作用するのみ.「あのときお前がこう言ったんだ,ほらみろ.」「お前が浮気をしたとき,コンドームを付けていたか証拠を見せろ.」あるいは,泥酔していた時のおぼえていない記憶を'再生'する.記憶どころか記録ですらなく,監視カメラである.しかも個人の意思で記録されるのではなく勝手にいつでも記録されていく.これもまた管理社会であって,情報のコンテンツが'リアル'になってしまった社会.

その'リアル'から抜けだすために主人公は埋め込まれたチップを除去し,すべての記憶=記録を消すことを選択して映画は終わる.(その直前に,記録をたよりに楽しかった記憶を再生して感傷に浸るシーンは蛇足に思う.記録は体験に依存していないはずだ.悲しみや寂しさなど果たして湧き上がるだろうか.)

問題はその後である.詳細な記録ならぬ曖昧で改変も起こりやすい本来の記憶の世界を生きることが果たして幸せに結びつくだろうか.情報処理的なコンテンツ消費に始終する人は無理だろう.過去の出来事について言った言わぬに粘着したり相手の過去の瑕疵をいつまでも責め立てたりする人は無理だろう.未来についても同じだろう.ヴィジョンは大事だろう.でもそれはまだ起きていない.少しもリアルではない.未来にせよ過去にせよ,体験と結びつけてリアルの世界へ誘導するようにしたい.原爆ドーム津波の被害を現物として残すというのがいい例だろう.未来については,SFや創作物の本領発揮だろう.

 

改めてリアルな体験とは何かという問いを突き付けてくれる作品.
同時に,リアルとは何かという問いも.
取り上げた3作とも,情報処理に堕するコンテンツ消費の究極的な形を描く.
SNSやサブスクなどの現代的な例もあるが,それ以前も事態は変わらない.テストで点数を取ることだけの勉強も,勝つことだけにこだわるようなスポーツへの態度も,さして大差ない.
なんだかふわふわして生きた心地のしない今の社会の原因はこういうところにあるのかもしれないと思った.

 

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