パラサイト 半地下の家族
キム家 (半地下の家族)
キム・ギテク(父,運転手)キム・ギウ(息子,主人公,家庭教師)キム・ギジョン(娘,妹,家庭教師)チュンスク(母,家政婦)
パク家(地上の家族)
パク・ドンイク(父,社長)ヨンギョ(妻)パク・ダヘ(娘)パク・ダソン(息子)
オ家(地下の家族)
オ・グンセ(地下にいる)ムングァン(妻,前家政婦)
映画のストーリーは他のサイトを参照のこと.ここでは映画の構造について考える.
「タテの構造」については他の考察者も指摘している.それは,地上・半地下・地下が経済階級の上流・下流・最下流に対応しているということである.
しかしこの映画の構造はそれにとどまらないのではないか.この映画には「終わらない再帰性」が描かれる.例えば:
・パク家が前家政婦,家庭教師,運転手に置き換わるという,寄生の再帰.
・クライマックスのテロのシーンでは地下の人間が半地下や地上の人間を襲い,半地下の人間が地上の人間を襲うという下剋上の再帰.
・力の存在(借金取りや警察)から追われる一家の主が地下で籠るという,力の失墜の再帰.
・テロ事件後,キム・ギウがパク・ダソンのごとく,標準的なふるまいを超えた,いわば規範超越的な役割を負うという再帰.
つまり,「出来事」の後に「変化」が来るのではなく,「置き換わり,replacement;再配置,rearrangement」が起こるだけ.つまり「再帰」するのである.
資本主義的階級構造の絶対性も時々起こるテロリズム的衝突も,すべて絶えず誰かが誰かに置き換わる営みにすぎず,その再帰と再配置の永遠の営みが描かれる.いわば「再帰性が再帰する」という究極の再帰.その再帰性が現代社会の宿痾として描き出されるのがこの映画である.
ラストシーンでは,キム・ギウが富豪になって例の家を買い,父を地下から救出する旨の野望が謳われる.これは実現するのか.映画の監督は,「ギウの平均年収では購入するのに500年以上かかる」と答えたらしい.それは今のままでは,ということだろう.一発なにかを当てれば富豪にもなれるだろう.
さて,問題は仮に富豪になったときである.そのとき,父は地下から地上へ這い上がる.ところが,この映画は再帰と再配置を描く.であるならば,次の二点が起こりうる:
・「地下から地上へ上がる者はテロを起こし,地上か半地下の者に殺される」という図式の再帰ゆえに,キム・ギテクは (i)テロを起こし,(ii)殺害される.考えようによっては,(i)は映画のテロ事件の際にパク・ドンイクを殺したことが対応し,(ii)は地上へ出たがゆえに警察によって逮捕され投獄されることが対応するかもしれない.あるいは新しいテロ=息子殺害を引き起こすかもしれない.いずれにせよ,再帰性が再帰するだろう.
・もう一点は,自明なことだが,新たな半地下と地下の家族がそれぞれ現れることだ.半地下の家族は地上の富豪に寄生して養ってもらう存在として再帰する.地下の住人は何か力の存在から追われる男が入ってくるだろう.そして,地上のキム家は地下の者の反乱により崩壊するだろう.
というような,再帰性の再帰性を描いた映画であると受け取った.その意味で,現代の資本主義やグローバル社会の徹底した風刺となっている.自分は誰かの置き換わりでしかなく,自分のポジションも誰かのポジションの再配置であるのではないか,という再帰性への埋没や実存的な不全感を観客も感じずにはいられないはずだ.