サボテン備忘録

面白かった映画の感想を書こうかな.

「ドラゴン桜2」評ー早瀬・藤井という人物

個人的にはドラゴン桜2はずっと早瀬(南沙良)と藤井(鈴鹿央士)という人物に注目していた.俳優としての演技力も別格であった.

●package戦略としてのpassanger精神で生きる早瀬.
ドラゴン桜2において早瀬の存在はなくてはならない.彼女の,飄々としてつかみどころのない自我が現代の人間を反射する.彼女には東大合格の明確な動機がない.ただ東大専科を利用して自分のキャリアパスの選択肢を広げるだけである.要するに"パッケージ"として東大専科を利用していただけだ.東大専科で勉強することが自分の人生設計の実現可能性を高めるという見込みが立ったのだ.共通テストでいい結果を出せたから,東大受験と同時に青学の共通テスト利用を出願.これも滑り止めだけではない,不幸にならないためのsecond bestな選択肢を用意しておくという打算からである.東大受験に明確な動機がない以上,青学受験も明確な動機はない.東大専科も,東大受験も,青学受験も,所詮不幸にならないためのパッケージの一つに過ぎない.生存戦略としてのパッケージ消費.どういうパッケージが自分にはあってコスパがいいか,それを計算する能力に長けていたのが早瀬という人物だ.人生を適切なコスト関数の最適化として捉えている,まさにホモ・エコノミクスである.もう一つ早瀬の実存に顕著なことは,そのpassenger精神である.つまり,旅客のごとく,目的地を決めてそこへ向かうが,自らハンドルをとることはしないような生き方である.どこを経由するか,どこに寄り道するかは他人任せ.でも目的地は自分で決める.「他人任せ」と謗られたら「目的地は自分で決めた」といえ,「独りよがりか」というとそうではない.東大専科も東大受験も教師に言われた通りにふるまい,青学受験に至っては合否を共通テストの得点と他の志願者の出願状況が合否を決める.明確な動機がなく,人生の選択の問題を最適なパッケージ選択の問題へと帰着させる早瀬には,当然旅客的な精神しか選ぶすべはない.現代の商業的な旅行がおしなべてパッケージになっているのと同じ理屈が貫徹する.目的地とパッケージを<主体的に>選んであとはパッケージに従っているだけでいい.不利益が生じぬよう保険も掛ける.早瀬の生き様はパッケージ戦略としてのパッセンジャー精神である.しかし東大が求めるのはパッセンジャーではない.バックパッカーである.受験勉強の段も,入学後の学問も,進んで寄り道をし,進んで険しい道を行く人物を求めている.つまり"過剰"な人間が求められている.早瀬にはその過剰さがない.早瀬の不合格は既定路線であった.

 

●package戦略としてのpassenger精神から抜け出せた藤井
早瀬と同じく,過剰さに欠け,旅客的なふるまいに終始したのが藤井である.動機は劣等感である.劣等とは言えないはずの藤井が劣等感ゆえに自己崩壊に苦しむ.藤井の東大受験の真の動機は東大受験の直前まで明かされない.それどころか藤井は理Iから理II,さらには文IIIへと志望を変える.桜木のいうがままに.自分で決断したようでいて,そうではない.強制されたようでいて,そうではない.その中間的なたたずまいがパッケージ選択者としての旅客だ.東大専科に入った理由も,賭けに負けて仕方なく入った.しかしその賭けには自ら挑んだ.藤井の世界も,すべてはパッケージ.過剰さと剰余さが足りない.そんな藤井が,東大受験直前で,過剰な動機を取り戻し(思い出し),リンチを受ける健太を助ける過剰さに芽生え,親に土下座して留年してまで東大受験にこだわる.もはや藤井にはパッケージ的パッセンジャーとしてではなく,バックパッカーとして東大を目指すことになった.だから桜木は言う,藤井は来年は必ず受かると.しかも,桜木の手を借りることなく,自らの手で受かると.藤井の過剰さは少しずつ芽生え始めていたが,最終的には受験の直前まで取り戻せなかった.その遅れが合格の遅れにつながっている.

 

パッケージ選択をするだけの旅行客的なふるまいは,計算可能性を高める.よほどのことが起きない限り,最適な道を進むだろう.決まった時間に目的地に着き,迷子にもならない.時間設計も完璧である.寄り道も回り道も危険な道もない.安心安全,便利快適.計算合理性のなせる業である.
しかし学問や研究はそれが通用しない.迂回が近道になり,安全が危険であり,利便性が不便であることがありうる世界だ.必要ではなさそうな,近道ではなさそうなものが時として大きなブレイクスルーを引き起こす.でもいつもそうというわけではない.リスクマネジメント,コストパフォーマンス,ビジネスマインドではろくな成果がでない.ましてや"その研究に何の意味があるのか・何の役に立つのか"などというのは愚問過ぎて論評に値しない.

 

計算可能性を高めようとする再帰的な近代社会は早瀬的な人間を必要とする.一方で学問の世界はneo藤井的な人間を必要とする.互いに相いれないことも多いだろう.それでよいのだろう.計算可能性の低い過剰さに由来する偶然性を徹底的に避ける近代社会と,過剰さゆえの剰余的な偶然性を必要とする学問の世界.その<対立>は"偏差値"ではない.偏差値は所詮計算合理性でしかない.だがこの差は計算では測れない."過剰な剰余の有無"こそがその隔たりである.過剰を避け合理性を追求する早瀬は経済社会で生き,過剰なものを志向する藤井は学問の世界で生きればよい.その多様さが社会の豊かさを保証してくれるだろう.


ただし東大専科は早瀬的な人物が少数派だが,一般社会では逆である.東大専科のその非日常性がドラゴン桜を待ち望む視聴者の欲望の対象なのであろう.
いずれにせよ,早瀬を演じられるのは南沙良しかいない.藤井を演じられるのは鈴鹿央士しかいない.この二人が安定な特異点と不安定な特異点としてドラマのホメオスタシスを保っていた.