サボテン備忘録

面白かった映画の感想を書こうかな.

「On Your Mark」 評:無垢の愚かさについて

宮崎駿監督のショートフィルム 「On Your Mark」を見た.7分弱の作品で,Chage & Asukaの楽曲 On Your MarkのMV(本家ではない)として,セリフはなく曲に沿ってアニメーションが流れるだけであるが,とても面白かった.見始めてから何度も繰り返し,10回以上は見たはず.

 

細かく説明すべき描写がたくさんあるが,それをすると膨大な文章になる.困った.
とりあえず必要最低限のストーリーを時系列に沿って.
チェルノブイリやスリーマイルのような原発事故後,汚染され頽廃して人が生活できなくなった大地
・人類は"地下"の閉鎖的だが広大で深い場所で(高度な)文明社会を営む
・その中心(と言っていいだろう)にある巨大な宗教教会の建物  God is watching youの文字  
・そこに武装したPoliceが攻め入る
・主人公は男二人=Chage & Asuka
・目的は"翼の生えた少女(like ナウシカ)"の救出 or 奪還
・少女は宗教施設の薄暗い倉庫のようなところで生かさず殺さずの扱いをされている
・ここで一度目のリフレイン
・奪還成功,少女は防護服を着た人たちの手に預けられる
・主人公は少女を手渡したことを後悔する
・今度は少女が保護されている施設に侵入する
・少女を奪還し,車で外の世界へ出ようと試みるも,Policeに阻まれ失敗するシーン  車ごと底に落ちていく中で,少女を逃がそう飛び立たせようと試みるも,共倒れで三人とも底へ落ちていく
・上のシーンのリフレイン  今度は車に推進力が付いたために空飛ぶ車のごとく飛んで逃げ続ける  
・ビルに突っ込み,三人はビルを抜けて別の車で外の荒廃した大地へ向かう
・さらに廃炉した原子炉の方へ向かい,普通なら極めて危険な地へ近づいていく
・その道中男らは少女を羽ばたかせ飛び立たせる
・少女は空高く舞い,男たちは車を停める(超危険な場所で)
・”そして僕らは...”という歌詞が流れてend

 

さて,本映画は7分弱のものであるので,うつっているものや世界はすべて"象徴"でありメタファーに過ぎないだろう.この映画が何を象徴しているのか考えた.この映画の解釈は人の数だけあるだろうし,正解などもないことは自明.

まず,映画中出てくるリフレインについてだが,この解釈も様々だろう.現実と虚構=夢と現実を表していて,どちらが現実か夢か観客に委ねているという解釈もあるだろうが,私はこれを,どちらも現実のことととらえる.つまり,On your markの歌詞通り,”失敗と反復”になぞらえて,一度目のシーンは"失敗"するときで,二度目のリフレインは二回目のチャレンジで成功することを意味すると考えてみる.

 

以下,興味深い描写とその象徴性について考える.

タイトルのOn your mark=あなたの(or 我々の)"場所"についてであるが,これは:
"場所"=われわれはどこへ向かう/向かってきたのか=時間/空間上の地点を意味しているのではないかと考える.

また,主人公のChage and Asukaは人類全般の象徴である.

まず,素直に見るとこの映画の世界は:
科学や科学技術の進歩の結果(原発事故),大地が退廃したあと,宗教的権威が台頭した世界で,少女が囚われの身になっている,という世界.この映画が世紀末のものであるから,ちょうど震災やオウムやwindowsが日本に大きな影響を与えた時代だ."原発事故と大地の頽廃"が"戦争と焼け野原","高度成長と公害","バブル景気とその崩壊やあるいは震災"を象徴する.あるいは海外に目を向けるとチェルノブイリの事故やスリーマイルの事故がある.その結果,日本社会ではオウムなどの新興宗教に人が傾倒する時代が来る.そんな時代背景とこの映画は重なる.

もっと抽象化すると次のようになる:行き過ぎたXの進歩により人類は地盤を失った後,Yが権威を持ち,Zを封印=コントロールしていたところへ,再び人類がZの開放へと動き出した.

この時系列に沿って,翼の生えた少女=男たちの希望が象徴するのは,"科学(科学技術)"だと考える.これはX=Zの場合である.宗教的権威の失墜を恐れて封印されていたものだ.そこへ主人公=人類は科学や技術の復権を目指して奪還に成功する.一度は危険なものとして専門家の慎重な支配下に置かれたが,主人公は自らの手で少女=科学を解放せしめようと専門家集団からも奪ってしまう.その結果,一度は失敗するも,繰り返すうちについに奪還に成功する.そして少女=科学を期待と希望を込めて大空へ羽ばたかせる.しかしその場所は,かつて人類が科学の繁栄とともに頽廃させてしまったところの大地であった.つまり人類は歴史を参照せず,忘却してしまったのだ.その愚かさに警鐘を鳴らしているのがこの作品だ.そして最後に「そして僕らは...」という歌詞とともに映画は終わる.それが意味することは,間違いなく,再び頽廃へと向かう人類である.つまり,本当に恐ろしいのは科学の暴走などではなく,歴史を参照しない人類の愚かさである.

その結果,冒頭の退廃した大地へと映画の構造そのものがリフレインする.つまりこの映画そのものが人間の愚かさの歴史のリフレインを意図している.一言で言えば歴史はくりかえすということだが,そこには歴史を顧みない人類の愚かさを美しい映像で忍ばせている.それゆえにメッセージは強烈だ.しかも人類は希望と期待を込めて気持ち良く少女を羽ばたかせようとしている.そこがまさにシニカルであり,この映画のすごいところだ.そのためにはストーリーの面白さだけじゃなく,絵の美しさと歌い手と曲と歌詞の見事さが必要で,本作ではそれがびったりとハマる.MVや映像作品としても申し分なくすばらしい.

 

さて以上が少女=科学説であるが,それ以外にもいくつもの他の象徴性もあり得るだろう.

たとえば少女=知恵の象徴としても機能する.宗教的権威は中世の西洋キリスト教,少女は人類普遍の原罪の所以たる知恵の実か.つまり知恵の実を食べてしまったことに由来する人類の原罪を克服するために人類が宗教にすがりいつかの救済のために神にはいつくばって生きていたところへ,主人公が知恵の開放をもくろむ.それは例えば産業革命や自然科学の勃興があり,ニーチェのいう"神の死"を象徴する.言い換えると啓蒙思想である.

実際,啓蒙 enlighteningとは暗いところに光を照らして明るくする,という意味だが,主人公が宗教施設に侵入するのは"夜"である.そして少女を抱えて外へ抜け出すことを試みるのは昼であった.まさに啓蒙である.しかし同時に宮﨑は"警報"も出している.夜の世界は一見きらびやかで美しい.しかしその実,昼の世界を見るとビルたちはとても汚くてまるで廃墟のごときだ.啓蒙=すばらしいというのもまた虚構であるという伏線を確り張っている.

知恵を備え,啓蒙によって近代的な生を営む人類文明はすばらしいのか.それは程度によるのであるが,人類の愚かさゆえに良かれと思って無制限に解放してしまうと頽落一直線である.その結果が,戦争,原爆,原発金融危機,環境破壊,公害,に繋がってきたという厳然たる事実がある.人類はそのような歴史を営んできたし,これからも歴史の忘却とともに同じ過ちを繰り返すに違いない.その繰り返しこそが原罪なのではないかというメッセージを受け取ることができる.

個人的には抽象論が好きなこともあって,少女=知恵の象徴とすると科学も技術も含むので好きだ.

 

しかしほかの可能性もいくらでもあるだろう.抽象的には

行き過ぎたXの進歩により人類は地盤を失った後,Yが権威を持ち,Zを封印=コントロールしていたところへ,再び人類がZの開放へと動き出した,という流れであればよい.Yも宗教に限らなくても良い.

GOD is watching とあるが,GOD=権威の象徴,watching you =権力の象徴である.つまりYは権威と権力の象徴であればよい. 

 

ところで,この作品をみて気になるのは,”生き生きとした生命感”が感じられないことだ.トトロ,ナウシカもののけ姫,にはある生命感,つまり"森"が全く描かれない.大地,草木,雲,青空,建物,だけである.少しも森が出てこない.ゆえに命の充溢が全く感じられない作品である.それもまた象徴的だ.

 

いろいろ主観で思い込みを述べたが,疑いようのないメッセージは:

on your mark
そして僕らは...

である.つまり,我々はどこから来て,どこへ向かうのか.

歴史を参照しつつ,自省的にふるまうよりほかはない.無垢なる愚かさを繰り返してはならぬ.(といいつつ必ず愚かさを繰り返すに決まっているというニヒリズム

とにかく,面白い映像体験だったぜ.

パラサイト 半地下の家族

キム家 (半地下の家族)
キム・ギテク(父,運転手)キム・ギウ(息子,主人公,家庭教師)キム・ギジョン(娘,妹,家庭教師)チュンスク(母,家政婦)

パク家(地上の家族)
パク・ドンイク(父,社長)ヨンギョ(妻)パク・ダヘ(娘)パク・ダソン(息子)

オ家(地下の家族)
オ・グンセ(地下にいる)ムングァン(妻,前家政婦)

 

映画のストーリーは他のサイトを参照のこと.ここでは映画の構造について考える.

「タテの構造」については他の考察者も指摘している.それは,地上・半地下・地下が経済階級の上流・下流・最下流に対応しているということである.

しかしこの映画の構造はそれにとどまらないのではないか.この映画には「終わらない再帰性」が描かれる.例えば:

・パク家が前家政婦,家庭教師,運転手に置き換わるという,寄生の再帰

・クライマックスのテロのシーンでは地下の人間が半地下や地上の人間を襲い,半地下の人間が地上の人間を襲うという下剋上再帰

・力の存在(借金取りや警察)から追われる一家の主が地下で籠るという,力の失墜の再帰

・テロ事件後,キム・ギウがパク・ダソンのごとく,標準的なふるまいを超えた,いわば規範超越的な役割を負うという再帰

つまり,「出来事」の後に「変化」が来るのではなく,「置き換わり,replacement;再配置,rearrangement」が起こるだけ.つまり「再帰」するのである.

資本主義的階級構造の絶対性も時々起こるテロリズム的衝突も,すべて絶えず誰かが誰かに置き換わる営みにすぎず,その再帰と再配置の永遠の営みが描かれる.いわば「再帰性再帰する」という究極の再帰.その再帰性現代社会の宿痾として描き出されるのがこの映画である.

ラストシーンでは,キム・ギウが富豪になって例の家を買い,父を地下から救出する旨の野望が謳われる.これは実現するのか.映画の監督は,「ギウの平均年収では購入するのに500年以上かかる」と答えたらしい.それは今のままでは,ということだろう.一発なにかを当てれば富豪にもなれるだろう.

さて,問題は仮に富豪になったときである.そのとき,父は地下から地上へ這い上がる.ところが,この映画は再帰と再配置を描く.であるならば,次の二点が起こりうる: 

・「地下から地上へ上がる者はテロを起こし,地上か半地下の者に殺される」という図式の再帰ゆえに,キム・ギテクは (i)テロを起こし,(ii)殺害される.考えようによっては,(i)は映画のテロ事件の際にパク・ドンイクを殺したことが対応し,(ii)は地上へ出たがゆえに警察によって逮捕され投獄されることが対応するかもしれない.あるいは新しいテロ=息子殺害を引き起こすかもしれない.いずれにせよ,再帰性再帰するだろう.

・もう一点は,自明なことだが,新たな半地下と地下の家族がそれぞれ現れることだ.半地下の家族は地上の富豪に寄生して養ってもらう存在として再帰する.地下の住人は何か力の存在から追われる男が入ってくるだろう.そして,地上のキム家は地下の者の反乱により崩壊するだろう.

 

というような,再帰性再帰性を描いた映画であると受け取った.その意味で,現代の資本主義やグローバル社会の徹底した風刺となっている.自分は誰かの置き換わりでしかなく,自分のポジションも誰かのポジションの再配置であるのではないか,という再帰性への埋没や実存的な不全感を観客も感じずにはいられないはずだ.

 

 

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「ドラゴン桜2」評ー早瀬・藤井という人物

個人的にはドラゴン桜2はずっと早瀬(南沙良)と藤井(鈴鹿央士)という人物に注目していた.俳優としての演技力も別格であった.

●package戦略としてのpassanger精神で生きる早瀬.
ドラゴン桜2において早瀬の存在はなくてはならない.彼女の,飄々としてつかみどころのない自我が現代の人間を反射する.彼女には東大合格の明確な動機がない.ただ東大専科を利用して自分のキャリアパスの選択肢を広げるだけである.要するに"パッケージ"として東大専科を利用していただけだ.東大専科で勉強することが自分の人生設計の実現可能性を高めるという見込みが立ったのだ.共通テストでいい結果を出せたから,東大受験と同時に青学の共通テスト利用を出願.これも滑り止めだけではない,不幸にならないためのsecond bestな選択肢を用意しておくという打算からである.東大受験に明確な動機がない以上,青学受験も明確な動機はない.東大専科も,東大受験も,青学受験も,所詮不幸にならないためのパッケージの一つに過ぎない.生存戦略としてのパッケージ消費.どういうパッケージが自分にはあってコスパがいいか,それを計算する能力に長けていたのが早瀬という人物だ.人生を適切なコスト関数の最適化として捉えている,まさにホモ・エコノミクスである.もう一つ早瀬の実存に顕著なことは,そのpassenger精神である.つまり,旅客のごとく,目的地を決めてそこへ向かうが,自らハンドルをとることはしないような生き方である.どこを経由するか,どこに寄り道するかは他人任せ.でも目的地は自分で決める.「他人任せ」と謗られたら「目的地は自分で決めた」といえ,「独りよがりか」というとそうではない.東大専科も東大受験も教師に言われた通りにふるまい,青学受験に至っては合否を共通テストの得点と他の志願者の出願状況が合否を決める.明確な動機がなく,人生の選択の問題を最適なパッケージ選択の問題へと帰着させる早瀬には,当然旅客的な精神しか選ぶすべはない.現代の商業的な旅行がおしなべてパッケージになっているのと同じ理屈が貫徹する.目的地とパッケージを<主体的に>選んであとはパッケージに従っているだけでいい.不利益が生じぬよう保険も掛ける.早瀬の生き様はパッケージ戦略としてのパッセンジャー精神である.しかし東大が求めるのはパッセンジャーではない.バックパッカーである.受験勉強の段も,入学後の学問も,進んで寄り道をし,進んで険しい道を行く人物を求めている.つまり"過剰"な人間が求められている.早瀬にはその過剰さがない.早瀬の不合格は既定路線であった.

 

●package戦略としてのpassenger精神から抜け出せた藤井
早瀬と同じく,過剰さに欠け,旅客的なふるまいに終始したのが藤井である.動機は劣等感である.劣等とは言えないはずの藤井が劣等感ゆえに自己崩壊に苦しむ.藤井の東大受験の真の動機は東大受験の直前まで明かされない.それどころか藤井は理Iから理II,さらには文IIIへと志望を変える.桜木のいうがままに.自分で決断したようでいて,そうではない.強制されたようでいて,そうではない.その中間的なたたずまいがパッケージ選択者としての旅客だ.東大専科に入った理由も,賭けに負けて仕方なく入った.しかしその賭けには自ら挑んだ.藤井の世界も,すべてはパッケージ.過剰さと剰余さが足りない.そんな藤井が,東大受験直前で,過剰な動機を取り戻し(思い出し),リンチを受ける健太を助ける過剰さに芽生え,親に土下座して留年してまで東大受験にこだわる.もはや藤井にはパッケージ的パッセンジャーとしてではなく,バックパッカーとして東大を目指すことになった.だから桜木は言う,藤井は来年は必ず受かると.しかも,桜木の手を借りることなく,自らの手で受かると.藤井の過剰さは少しずつ芽生え始めていたが,最終的には受験の直前まで取り戻せなかった.その遅れが合格の遅れにつながっている.

 

パッケージ選択をするだけの旅行客的なふるまいは,計算可能性を高める.よほどのことが起きない限り,最適な道を進むだろう.決まった時間に目的地に着き,迷子にもならない.時間設計も完璧である.寄り道も回り道も危険な道もない.安心安全,便利快適.計算合理性のなせる業である.
しかし学問や研究はそれが通用しない.迂回が近道になり,安全が危険であり,利便性が不便であることがありうる世界だ.必要ではなさそうな,近道ではなさそうなものが時として大きなブレイクスルーを引き起こす.でもいつもそうというわけではない.リスクマネジメント,コストパフォーマンス,ビジネスマインドではろくな成果がでない.ましてや"その研究に何の意味があるのか・何の役に立つのか"などというのは愚問過ぎて論評に値しない.

 

計算可能性を高めようとする再帰的な近代社会は早瀬的な人間を必要とする.一方で学問の世界はneo藤井的な人間を必要とする.互いに相いれないことも多いだろう.それでよいのだろう.計算可能性の低い過剰さに由来する偶然性を徹底的に避ける近代社会と,過剰さゆえの剰余的な偶然性を必要とする学問の世界.その<対立>は"偏差値"ではない.偏差値は所詮計算合理性でしかない.だがこの差は計算では測れない."過剰な剰余の有無"こそがその隔たりである.過剰を避け合理性を追求する早瀬は経済社会で生き,過剰なものを志向する藤井は学問の世界で生きればよい.その多様さが社会の豊かさを保証してくれるだろう.


ただし東大専科は早瀬的な人物が少数派だが,一般社会では逆である.東大専科のその非日常性がドラゴン桜を待ち望む視聴者の欲望の対象なのであろう.
いずれにせよ,早瀬を演じられるのは南沙良しかいない.藤井を演じられるのは鈴鹿央士しかいない.この二人が安定な特異点と不安定な特異点としてドラマのホメオスタシスを保っていた.

Green Book

グリーンブック

 

高名な黒人ピアニスト(シャーリー)がイタリア系の白人(トニー)をツアーの運転手として雇い,黒人差別の根強く残るアメリカ南部を回る話.初めはトニーも黒人への無意識の偏見があるが,シャーリーのピアノの演奏に一瞬で引き込まれ,一瞬で仲間になる.ツアーは各地の白人の上流階級の集まるパーティーに呼ばれたものであり,白人はシャーリーの演奏に感動をする.だが,ひとたび演奏が終わると,シャーリー用のトイレは他の黒人と同じく屋外のぼろい建物.見ているこちらも気分が悪くなる.最高の演奏をしては差別的な扱いを受け,不当な待遇を与えられてはその場で最高のパフォーマンスを行う.その交差の連鎖で我々は非日常的な体験をする.しかし同時に,演奏中のシャーリーの表情がどこか物悲しい.そういうスタイルなのか,そういう調べなのか,はたまた白人のダブルスタンダードを感じ取っているのか.上流階級の白人は黒人をツールのように扱う.農奴のごとく働かされる黒人も描かれるし,バーやホテルのセグリゲーションもある.シャーリーのツアーも,白人たちが楽しいひと時を送るためのスパイスに過ぎない.演奏は聞きたい,だけどトイレや楽屋は同じところを使わせたくない.実に不快.

しかし劇中ではシャーリーはトニーといるときだけ,心から笑うことができる.二人だけの秘密のようにちょっとだけ悪いことをしては心を通わせる.どういうわけか人間は秘密の共有により,人間同士の距離がぐっと縮まることがある.ルールの外側に出るからこそわかるお互いの人格がある.当時のルールでは黒人は白人と同じ文脈を共有してはならない.だからこそトニーとシャーリーの旅はルールを逸脱している.ゆえに享楽を分かち合う.ドawayなshowでしかない白人上流階級(高級なピアノを用意する)へ向けてのコンサートよりも,coloredのためのバーで名前も知らない者たち同士で演奏(楽器も安っぽい)したジャズの方が,何倍も輝かしく,その場にいなくてもその場と同じ輝きの瞬間を共有できる.ルールの内側の窮屈さと,ルールの外側の輝きとが映画のいたるところで繰り返される.それが収斂されるのが,「青い石」である.シャーリーとトニーを結びつけるのがこの石であり,それはトニーがほとんど万引きで得たものであり,さらにトニーからシャーリーがくすねた石だった.

いかに白人に気に入られようが黒人として生まれた瞬間からルールの内側を生きられないシャーリー.自らの差別意識(トニーは旅の途中常に拳銃を携帯していたと最後にわかる)に反してシャーリーとつきっきりの2か月間の旅をしなければならないトニーもまたルールの外側を(旅の間は)生きることを強いられる(黒人の運転手として雇われた!).であるがゆえに,旅のあとの親しい間柄同士の楽しいクリスマスパーティーも,どこか楽しくない.なぜか.もはやルールの内側を生きられないからである.その内側はつまらないと気づかされた.教科書的な方法で教わるのではなく,自らの体験をもってその喜びを知ってしまったのである.ドラッグの快楽を知ってしまったかのごとく.それがまた音楽を通して得たことも示唆的である.言葉を介在せずに感情を引き出すことのできる音楽だからこそ,黒人のシャーリーと,教養もなく無意識の差別感情に凝り固まったイタリア系白人のトニーとがつながる.音楽であるからこそ,映画として「説明臭さ」もない.良い映画であった.

 

https://www.netflix.com/browse?jbv=81013585

NetFlix: Black Mirror 2021/5/31

Black Mirror Season3, episode1 "ランク社会"

なかなか面白い'反実仮想'であった.
SNSで'いいね'を稼いで,得られた今の自分の'ランク'(線形代数とは関係ない)が生活のサービスの質と生の豊かさを決定する社会を描く.
いいねが欲しいから他人に愛想を振りまき,別れ際に笑顔で相手にハイスコアのいいねをあげる.そうすると相手は自分にハイスコアのいいねをくれる.
なんとも"きもい"社会と人付き合いである.時折不満が溜まって悪口を言ってしまうと,それを聞いた周囲がすぐさま低い評価をくれ,それゆえ自らのランクがどんどん下がる.そうすると主人公は焦りと不安でいいね稼ぎに脅迫される.実に愚か愚かしい.一つは,不安と焦りに脅迫された人間はかくもキモく成り下がるのかということ.
一つは,'いいね'上の付き合いの蔓延しきった社会はかくもキモく窮屈なこと.

本作品を見たあと思い出すのは,"リーガル・ハイ"である.リーガル・ハイのシーズン2の最後の最後に古美門が羽生を打ち負かした後に一言,「自分も醜い人間の一人であることを自覚しろ」といい,「醜さを愛せ」という.それが黛にも刺さる.ランク社会の住人にも妥当する.この映画を見ている人たちも,映画を見ている途中で「醜さを愛せない人間や社会はキモい」と気づく.

映画の最後で監獄に入れられた主人公は空気中の「ちりやほこり」にさえ感動し,自らの生き方と社会の在り方のキモさを込めて暴言を吐き続ける.誰しもが醜さを持っているという人間の実存の本源を究極的に隠すという行為の愚かさを投げかける.醜さを受け入れられない社会はキモい.いいね探しの人生や社会はキモい.他人から数値化された一次元的な評価軸で自らの価値を左右され一喜一憂することほどキモいものはない.それは学校教育での試験や内申点なども含まれるだろう.しょうもないランク社会は避けたい.肥大化した自意識を自分の中だけで処理することのできない幼稚な人間が日本にもいろんなところで見かけるような.

 

Season1 Episode2 "1500万メリット"

徹底的な管理社会.人々は毎日決まったリズムで同じ生活を送る.共産主義的なノスタルジーか,それとも奴隷社会の警鐘か.ヴァーチャルなお金を貯めるべく自転車の発電を行う.それが運動にもなるし,生活の電力をまかなう.あらゆる営みはヴァーチャルな情報としてしか消費されない.というより,あらゆる営みがコンテンツとしてしか現れない.なんら'リアル'なこと・ものはない.あるのは情報だけ.そこから抜け出す方法はただ1つ,オーディション番組に出てスターになること.主人公の男はある女性の美声に賭けて,唯一のリアルな体験="女性がスター歌手になること"を期待する.しかし女性は審査員たちに嵌められてポルノ女優になる道を選ばざるを得なくなる.自分の期待した夢すら再びコンテンツになってしまい情報として消費されるだけである.すると残る非情報的・非コンテンツ的な営みは,その審査員たちに一矢報いることだけ.自殺するふりをして注目をあび,審査員を罵倒する.その瞬間は主人公にとってvividでrealな体験であるだろうが,終わるや否や,審査員は彼のアクションをエンターテインメントとして吸収して彼をスターパフォーマーとして雇う.先の女性も主人公の彼も,毎日の自転車生活を捨て,'役者'になることを選んだ.リアリティを期待した結果,自分がコンテンツの消費者からコンテンツの配信者になっただけ.何も変わらず,'コンテンツの消費'という事態から何も進展しなかった.埋め込まれた文脈から少しも抜け出すことはできないのだろう.

コンテンツ消費の社会に何を期待すればいいのだろうか,あるいは情報的コンテンツ消費の社会を目指していいのだろうか,と問うているのだろうか.

しかしNetflixはそのような社会を支える媒体ではなかろうか.コロナ禍のstay homeでNetflixは躍進した.人は情報処理的コンテンツ消費を望んだのだろう.オンライン飲み会もしかり.たまに感染症に注意しながらBBQにふける.ではオフラインの飲み会ならリアルなのか.情報処理ではないのか.所詮一過的な"オーディション番組"に過ぎないのではないか.

 

Season1 Episode3 "人生の軌跡のすべて"

頭に埋め込まれたチップが個人の記憶のすべてを記録している社会.各人はいつでもどこでも好きな時刻の記憶を再生することができる.ここでもまた情報処理的コンテンツ消費だ.記憶が情報として処理されるコンテンツになった社会だ.そこには記憶と記録の違いがなくなった.よって記憶は体験とリンクしない.その時の体験を思い出しながら感傷に浸るのではない.端的に言えばAVやハメ撮りを見るのと相似だ.あるのは記録だけ.映画のように非日常を与えるのでもなく,テレビのように娯楽や家族との時間を得るのでもない.単にオカズとして消費されるのみ.便利になったり楽しくなったりするわけではなく,もはや'証拠'として作用するのみ.「あのときお前がこう言ったんだ,ほらみろ.」「お前が浮気をしたとき,コンドームを付けていたか証拠を見せろ.」あるいは,泥酔していた時のおぼえていない記憶を'再生'する.記憶どころか記録ですらなく,監視カメラである.しかも個人の意思で記録されるのではなく勝手にいつでも記録されていく.これもまた管理社会であって,情報のコンテンツが'リアル'になってしまった社会.

その'リアル'から抜けだすために主人公は埋め込まれたチップを除去し,すべての記憶=記録を消すことを選択して映画は終わる.(その直前に,記録をたよりに楽しかった記憶を再生して感傷に浸るシーンは蛇足に思う.記録は体験に依存していないはずだ.悲しみや寂しさなど果たして湧き上がるだろうか.)

問題はその後である.詳細な記録ならぬ曖昧で改変も起こりやすい本来の記憶の世界を生きることが果たして幸せに結びつくだろうか.情報処理的なコンテンツ消費に始終する人は無理だろう.過去の出来事について言った言わぬに粘着したり相手の過去の瑕疵をいつまでも責め立てたりする人は無理だろう.未来についても同じだろう.ヴィジョンは大事だろう.でもそれはまだ起きていない.少しもリアルではない.未来にせよ過去にせよ,体験と結びつけてリアルの世界へ誘導するようにしたい.原爆ドーム津波の被害を現物として残すというのがいい例だろう.未来については,SFや創作物の本領発揮だろう.

 

改めてリアルな体験とは何かという問いを突き付けてくれる作品.
同時に,リアルとは何かという問いも.
取り上げた3作とも,情報処理に堕するコンテンツ消費の究極的な形を描く.
SNSやサブスクなどの現代的な例もあるが,それ以前も事態は変わらない.テストで点数を取ることだけの勉強も,勝つことだけにこだわるようなスポーツへの態度も,さして大差ない.
なんだかふわふわして生きた心地のしない今の社会の原因はこういうところにあるのかもしれないと思った.

 

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Netflix: Love, Death & Robots

Netflixのオリジナル作品:Love, Death & Robots,を見た.
全部ではないが,第1~9話と最後の第18話を見た.

これはなかなか面白い.
まずアバターのきれいさに驚く.どういう仕組みなのか全然知らないが,ほんのわずかな違和感(アテレコゆえの時差etc.)だけで生身の人間との見分けがつかないこともある.

かつまた,シリーズ1には18話のdisjointな話があるが,各々10分程度であるからとても見やすい.さくっとみられる.なのに各々面白い.

内容については,私が見た話に限定すると,
「ある文脈の終焉と頽廃,そしてその先」
「人間文明の徹底的な敗北」
「逃れられないことから逃れられない」
という仕組みの挑戦だと考えられ,日本で言うと「世にも奇妙な物語」のハイクオリティ版だともいえるかもしれない.

例えば:
第3話:古い冷蔵庫を開けると中にはもう一つの地球があり,氷河期から始まって産業革命,現代,そして未来を俯瞰できる.最終的に,人類文明が滅びて,もう一度恐竜の時代が始まる.つまり,地球の目線からすれば人類が勝手に成長して勝手に滅びるという事実だけがその上に広がり,全く同様に,ただ恐竜が現れ,氷河期が現れる.その事実に直面する若いカップルは,冷蔵庫の前で見つめあい抱きしめ合うことしかできない.過去も現在も未来も,情報として脳内で処理されるだけで,何ら直接的な体験ではない.ただ直接的な体験は,目の前の恋人だけ.
第5話:ヨーグルトが人間に代わって政治を行い,国家運営を行う.ヨーグルトの啓示を聞いた'賢い'人間たちは,幸せに,健康に,豊かに暮らし,そうでない人々は,そうではない.ヨーグルトというチョイスが良いと思う.つまり,健康の見方であってネガティブな側面はない.AIやロボットやエイリアンとは違い,我々の良く知っているものである.これは乗っ取られることへの警鐘や恐怖ではなく,「乗っ取られのススメ」である.factor X (e.g., ヨーグルト) は何でもいい.科学技術,ロボット,AI,教祖様など,なんでも考えられる.端的に言えば,乗っ取られた方が幸せで楽しいのではなかろうか,という挑発に思える.あるいは,人類史を抽象的に寓話化したものか.
第18話:ある天才芸術家の作品と個人史についての話.素晴らしい作品の上から,中心に,青い単調な幾何学的図形を配置して人々をいらだたせる.その図形は次第に大きくなり,もはや青しかなくなる.最後の作品を大観衆の前で完成させる際に,この芸術家は自らの業績と名声を捨てて,すべてのはじまりに戻ることを選択し,それを見せつける.つまり,奴隷への回帰を選択する.

 

共通しているのは,"逃れられず豊かなる望みもない文脈へ自らを埋め込むことへの覚悟はあるか".

 

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